あやまほし

観劇・体験レポとエッセイ

短歌あげるよロマンチックください

「私たちもう会うこともないとおもう

一瞬流れし或る夜のラジオ」

人の出会いって、ラジオなのかなって閃いた。適当にラジオの"つまみ"を回してると、どこかのラジオ局の音がガサガサ聞こえ始めて、もう少し回すと音がクリアになって、もっと回すとまたガサガサ聞こえなくなるじゃない?それと同じだって思ったんだよね。たまに隣国の電波拾っちゃったりして、訳わかんないけど何かを喋ってるってことは分かるみたいな。出逢う・出くわすのって、つまみ回しあっててたまたま周波数が合った時なんじゃないかなって思った。その合ってる瞬間の長さがどれだけなのかってだけの事なのかもな。長く連れ添うことができるって、お互いの周波数が"合い合ってる"ってことなんだ。合ってたのが一瞬だけだとしても、永遠のように思える幸せな時間にもなるし、長けりゃ良いってもんでもない。

今はつまみ回してチューニングする必要なんてなくて、確実にその周波数に飛べる数字のついたボタンを押したり親指を上にスライドするだけで見たいものをすぐ見られるし、むしろ、これ見たいんじゃない?ってオススメまでしてきてくれる。だから、どんなものを見られるのか聞けるのか分からず、はたまた雑音ばっかなだけかもしれないのにつまみを回す行為や、そんな事をしなければ役割を果たさないタイプのラジオなんか大切にしていても無駄だと思われがちだけど、私はつまみを回し続けようと思う。一瞬だけでも合うことができて良かったって思うよ。一昨日は気付きもしなくて、昨日まで耳元だったのに、だんだんまた遠くのノイズに巻き込まれて小さくなっていくさっきまでのときめきが今離れてく。

何を聞けたかとか見られたかってことよりも、つまみを回した事自体が1番大切なんだと思う。サウンドクリエイターのゆーじん(Instagram:@poropiore)さんがシェアしてくれた「仏教においての、幸せの正体は変化幅である(ニュアンス)」という言葉を知ってなんか元気出た。そもそもつまみを回してみた、その幅こそが1番尊いんだね。

もう会うこともないかもしれないけど会えないこともないとおもう。全ては粒と波。